英語落語の難しさ
弟月 ところで右團治さんは、英語で落語を演じられるそうですね。
右團治 まだ取り組みを始めたばかりなんです。もともと英語は好きだったんですが、きっかけがありまして、女性の噺家3人で、同じネタをそれぞれが違う国の言葉で演じる会を開こうということになったのです。「松山鏡」*1という演目ですが、先輩が日本語、もう一人が韓国語、私が英語の担当になりました。「松山鏡」あらすじ」はこちら
弟月 スムーズに演じられましたか?日本語の文章を英語に翻訳するのは本当に難しいと思います。とりわけ壁になるのが、英語が主語・述語がはっきりしているのに対して、日本語は述語表現が細やかで、必ずしも主語を必要としません。数々の日本文学を英訳したサイデンステッカー氏(この夏亡くなられましたが)は、川端康成の「雪国」を評して、日本語の不明瞭さ、主語が無くても成立する会話などを上手に生かした作品だといっています。同時に、英語では基本的には「主語」を立てざるを得ない、と英語に翻訳するときの苦心を語っています*2。落語で言えば、日本語には、職人なら「あっし」「おれ」というようにさまざまな人称代名詞があるけれど、英語で演じるときはすべて「I」になってしまい、言葉からは武士や商人とは違う身分であることがわからなくなってしまいますよね。
右團治 そうですね、英語で演じるとき、日本語での表現を補うものは「身振り手振り」ですね。また不思議なもので、自然に身振り手振りがついちゃいます。(両手を広げながら)「ワンス・アポンナタイム」という具合に(笑)。英語落語はまだまだ実験段階です。たとえば、「松山鏡」の最後は、つるつる頭が鏡に映ったのを見て「尼さんになった」という落ちで終わるのですが、「~became
a nun」(ビケイム・ア・ナン)と言葉では言えても、あちらの尼さんは坊主頭じゃないので、落ちになりませんよね。それで苦肉の策で頭をつるんとなでるような仕草をしたんですが。
表現されたものを受けとめる
弟月 英語落語の場合は、言葉に加えて文化の違いによる壁があるので、表現したことが理解され笑ってもらうまでのプロセスがたいへんだと思います。でも、実はそこが大事なんですよね。言葉というのは「コミュニケーションのための道具だ」といいます。たしかにそういう側面もありますが、同時に話す人、書く人にとっては自分を表現しているわけですから、その全体を受け止めることが大切ですね。言葉の意味だけを追いかけていては、落語は楽しめません。右團治さんの「語り」を通して、私たちは江戸の長屋住まいを想像し、大家さん、熊さんの人物像を受け止めるから、言葉に面白みが出てくる。これは、英語学習でも同じことが言えるんです。文法や語順の違いを学習するのと同時に、生きた英語作品にたくさん触れる必要があります。
右團治 私たち落語の世界でも、書かれたものを読むんじゃなく、やはり生きた言葉で覚えるんです。修業時代に稽古をつけてもらうときも、師匠が話すとおりに、間の取り方も含めて繰り返して稽古します。直伝ですね。お稽古の時にテープを取らせていただいて、何度も何度も繰り返すことで江戸弁のリズムや言葉のアクセントを自分の中に取り入れるんですね。目からではなく、「耳から」覚えることが大事なんです。
弟月 右團治さんにひとつ、聴いていただきたいCDがあるんですよ。私どものコア英語教室では、まさにその「耳から」英語を体に入れるトレーニングをするんです。これがその教材なんですが。
右團治さんにCDを試聴していただきました
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*1 落語「松山鏡」
(あらすじ)昔、松山村に正直正助と呼ばれる男が、毎日、両親の墓参りをする親孝行ぶりに感動した殿様から褒美をいただくことに。何でも欲しいものを言えと言われ、「亡くなった父っつぁまに一目会いたい」との答え。困った殿様は貴重品だった鏡を与えた。村人はまだ鏡を見たこともない。正助は納屋にしまって、毎日そっと鏡の中の父親(自分)に会いに行った。不審に思った女房が、鏡を見つけ出してのぞくと見知らぬ女(女房)がいた。こんなところに女を隠していたと怒って、仲睦まじかった夫婦が大喧嘩となった。そこに通りかかった尼さんが話を聞き、鏡をのぞいてにっこり。「二人に申し訳ないと、中の女は尼さんになった」
(下は英語落語の一部)
Once upon a time in a village called Matsuyama, there was
a man called Shojiki Shosuke who was very devoted to his deceased parents.・・・"I’ll
give you anything you want. So what would you like? Clothes? Rice fields? Money?
”・・・“Actually, I want to see my father, who died 18 years ago, just one more
time.”・・・Shosuke thought it was his father in the mirror and went home delighted.
・・・His wife, noticing Shosuke’s strange actions, went into the barn when he was
away and found the mirror.・・・She was surprised to see a woman’s face looking
at her.・・・“Don’t worry, you two,”she reassured them. “Because she caused you
to quarrel so bitterly, the woman in the mirror felt guilty and became a nun."
たとえば有名な冒頭の原文と英語は次のとおりです。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
"The train came out of the long tunnel into the snow country."
原文では主語が無いまま描かれ、文の最後が「であった」という表現で、主人公の視線になって語り手が語っているように感じられます。一方、英語では、‘The train’
が文のすべてを支配する主語になり、違ったイメージが浮かびます。
もちろん、ここで原文に対して正確な訳になっていないことを言いたいわけではありません。サイデンステッカー氏の翻訳は作品として自立し、全体として川端作品の美を表現できていればいいわけですから。日英どちらに翻訳するにしろ、「雪国」のような文学作品では本質的に「正確な対訳」というものはありえません。the
train を主語にもってきたのは氏にとっては苦渋の選択であったろうと思われます。
一方、私たちコアでは、作品の英語を訳すとき、いわゆるこの「翻訳」をしない理由もここにあるのです。日本語らしく訳すのではなく、英文の構造、構文の特徴を理解するため、その結果日本語との違いを理解するために、意味を損なわない限り直訳します。サイデンステッカー氏が英語として自然な主語としてthe train を立てたように、逆に自然な日本語、こなれた日本語にすると、翻訳にはなりますが、私たちの訳の学習の意味はそこにはありません。それはさらに高いレベルの学習段階ですればよいので、小中学生の段階では英文の仕組みの理解を目的としています。サイデンステッカー氏は日本語の小説を、英文として自然な文学作品に変えたから、一流の翻訳となっているわけです。
ところで、この冒頭の一節は、たくさんの人たちが取り上げ、さまざまな意見を述べておられます。日英の構文の違い、主語の有無に関して、文法的な解釈、あるいは認知科学から、あるいはコンピューター言語の立場からなど。しかし、あくまでも小説の中の一節ですから、その一文だけを通して比較検討するのは難しいことだと思われます。英文法の例文ではありませんから、初めての読みのときと、何回も読んだ後での解釈では、おのずから変わってきます。英文の場合も同じです。何度も読んでから冒頭の The train…..を読むと、またちがったイメージが浮かびます。どのような立場で,何を目的として取り上げるかを明確にしなければいけません。
(弟月)